(天声人語)一葉のひな祭り

19歳の春のこと、樋口一葉は日記に書いている。明治25年といえば、西暦では1892年、その3月3日は雨の降る日だった。〈上巳(じょうし)の節会(せちえ)なればとて、白酒、いり豆などとゝのへて一同祝ふ〉▼暦を見れば、一年には五つの節句がある。5月5日の端午、7月7日の七夕のほか、上巳の節句もその一つ。別の呼び名では、桃の節句であり、ひな祭りである。一葉の家には姉も訪ねてきて、家族みんなで祝ったらしい▼日記を読み進めると、降りやまぬ雨、原稿の執筆、文人との交遊と穏やかな日が続く。貧しく、手狭な家にいても〈優々たる春の光、春の匂ひの、身にも心にも家のうちにもみち渡りたる〉。そんな我が親子の暮らしに、たのしきもの、ありやあらずや▼一葉のささやかで、小さな幸せを感じる文章である。同時に、何とも切ない気持ちにもなる。のちに彼女が困窮を極め、病に苦しみ、24歳で逝ったのを知っているからだろう。その夭折(ようせつ)を惜しむ▼はて、ひな祭りと聞くとき、人の思いはひょいと、時空を超える。幼いころの懐かしい記憶が浮かび、自らの過去に出会えるだけではない。古人の残した記述からも、その心情がしんみりと伝わってくる。長く市井に親しまれる節日の妙か▼連日の雨、夜の間に晴れ渡りて、うらうらと霞(かす)む朝のけしき、いとのどか也(なり)。一葉の言葉は、うつくしい。蕩々(とうとう)たる春の風が、梅の花をみだし、薫りたつ。鶯(うぐいす)の声もひびいている。ああ我や、どの春を、よの人にお見せしましょう。2026-3-3朝日新聞朝刊一面


《おまけ》
ご節句とは
五節句の種類と日付


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